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春、今年もはじまりの季節がやってきた。新しい生活や目標へ、一歩を踏み出す人も多いのでは。憧れのあの人は、僕ら世代のときにいったい何を考え、どう過ごしていたのだろう。悩み多きメンズノンノ読者に、各界で活躍する先輩からエールが届いた!
憧れる先輩が身近にいたから、
追いつきたくて夢中で
仕事をしていました。
目の前の目標を
クリアしてきたことが、
すべてオーラリーに
つながっています。
古着屋になることを夢見ていた
――オーラリーを始めてから、はや7年。パリコレにも参加するなど快進撃が続きますが、岩井さんは最初からデザイナーをめざしていたわけじゃないんですよね?
「はい、ファッションを好きになった高校生の頃は、古着屋さんになりたいと思っていました。だから通っていた古着屋さんから『うちで働かない?』と声をかけられたときは本当にうれしかった。今思うと、それが人生の転機だった気がします。ヴィンテージから比較的新しいものまで、アウトドア、スポーツ、ミリタリーとジャンルにもとらわれないオーナーの視点が魅力の古着屋でした。販売職を経験したことで、服を1枚売るのがどれだけ大変なことか知りましたし、何よりたくさんの服を見ることができたのは、今も僕の財産です」
――大学卒業後、文化服装学院夜間部でデザインを学ぶために、上京したんですか?
「アパレルブランドで働こうと思ってです。高校生の頃から、古着だけでなくA.P.C.やヘルムート ラングといったシンプルで作りのいい服が好きでした。日本のブランドではサイ、カラー、ノリコイケ。なかでもノリコイケはシンプルでシックで、素材がいいから長く着られる。上京した頃には、そこで働きたいと思うようになっていて」
――今の話を聞いていると、オーラリーとシンクロする部分がとても多いですね。
「ノリコイケもニットブランドだったので糸から作っていましたからね。上京してすぐ電話して会いに行ったんですが、当時はスタッフを募集していなかったので『装苑』編集部でバイトをしつつ、展示会など人手がいるときに小池さんに呼んでいただいて、お手伝いに行ったりしていました」
20代の自分
神戸の古着店でアルバイトをしていた大学1年生の頃。「古着屋になりたいと考えていたので、大学は商学部に進学しました」
――その後ノリコイケでも働かれました。
「これも僕の人生ではひとつのターニングポイントです。いちばん好きなデザイナーだった小池のり子さんの下で働ける。夢のようでした。小池さんはその人柄にも感銘を受けました。会う人がみんな小池さんを好きになってしまう、そんなすてきな方だったので……(2011年に逝去)。服作りにおいても原料を吟味して糸から作るということ、そうすることがクオリティにつながるということを学びました。素材から作ると、工程や関わる人の数は多くなりますが、みんな小池さんの人柄にほれ込んでいるから難題にも協力してくれるんです」
――文化服装学院での学生生活は楽しんでいましたか? 日中働いて夜学校に通うのは、大変だったと思いますが……。
「1、2年生は課題もきっちりやって学校にも通っていましたが、3年生の頃にスウェットで有名なアパレル会社で働きだしてからは、大変でした。課題はできないし、学校にも通えずで、卒業できたのが奇跡です(笑)。ただ学校で学んだ以上に、働き始めてそこで覚えたことのほうがやっぱり多い。働くということは現実ですからね」
――社会人としての20代後半、仕事をするようになって、挫折などもありましたか?
「挫折はなかったのですが、その会社に尾崎雄飛さん(現SUN/kakkeデザイナー)がいらっしゃった。尾崎さんは僕の3歳上ですが、すごく仕事ができて。しかも多趣味で交友関係も広くて博識。10歳以上の差を感じました。尾崎さんを見て、自分は3年後に同じように仕事ができるか? このままでは追いつけない! と、必死になりました。身近に高い目標を持っている人がいたというのは、自分にとってすごく大きかった。ずっと一緒にいたので、服の見方から買い物の仕方、ご飯屋さんまで教えてもらい(笑)。『相手の立場になって仕事をしろ』とかいろいろな言動も含めてすごく勉強になったし、影響も受けました」
――最近はYouTubeで「尾崎雄飛の洋服天国」も配信してますよね。本当に多趣味。
「当時も今も、尾崎さんはあまり寝てないんじゃないですかね(笑)」
身近に目標を持つことの大事さ
――20代はひたすら働いていたということですが、何か思い出深いことは?
「いい働き方だったかどうかはさておき(笑)、本当に夢中で働いていました。でも服の仕事は楽しかったから、まったく苦ではなかったんです。当時、尾崎さんに連れられて行った先々で、ファッション業界の先輩方、異業種のセンスのいい方々を紹介していただいて。いろんな職種の方と話す機会が持てたことは、とてもいい経験になっています。思えば今まで、俳優やミュージシャンのような、遠い存在に憧れたことはなく、いつも身近な人に刺激を受けて目標にしてきました。それをクリアしていった結果がオーラリーにつながったんだと思います」
――お話を伺うと、岩井さんのスタイルやオーラリーのベースは、10代、20代ですでにできあがっていたんですね。
「地元神戸には、外国人居留地に洗練された海外ブランドのブティックがあるかと思えば、元町高架下のような混沌(こんとん)とした古着屋街もあって。その両方が僕の中でミックスされて、自然と肩の力が抜けた頑張っていない感じのスタイルが好きになりました。人間的にもフラットな目線で見られることや、自分の軸を持つこと、自然体だけどやるときにはやる。そんな人になりたいと」
20代の自分
オーラリーの前のアパレルブランド時代。「僕はお酒を飲まないので、自分から遊ぶこともなく(笑)。今は銭湯に通って息抜きするようになりました」
――30歳でオーラリーを立ち上げて、今はどんなことを目標にしていますか?
「ブランドを立ち上げたときは、ドキドキの連続でしたね。最初の展示会を見てほしくて、いろいろなところに挨拶(あいさつ)に行ったり。メンズノンノにもすごく緊張しながら伺いました(笑)。そしたら予想以上に皆さんが足を運んでくださって、オーダーも入った。店頭でも売れ行きがよくて、僕たちもびっくりしました。それでブランドをやっていけるという自信も持てた。今は長く続けることを目標にしています」
――そのために努力していることは?
「興味や好奇心を持ち続けることですね。気持ち的な部分がないと、続けていってもよくならないから。『もっとよくしたい』という思いが僕の原動力です。コレクションが終わると反省することも多いんですが、『次こそは!』と思うから続けていける。もちろん、満足がいくものができたときはすごくうれしいし、それを服が好きな人が、お気に入りと合わせて着てくれたりすることが、いちばんの喜びです」
――オーラリーといえば、きょう岩井さんが着ているニットのように、独特の色使いが印象的で、ファンも多いですよね。
「どっちつかずの色ですね(笑)。新しい色を作ることには、めちゃくちゃ時間をかけています。そして、すごく大事にしています。色って味覚と一緒で感覚的なことなので、人によって感じ方が違います。それをどう具体的に伝えて、僕の思い描く色を出すか。そこはずっと課題です」
――最後に、読者世代に伝えたいことは?
「20代はいろんな経験をしたほうがいいと思います。お金と時間をどう使うかで、後の人生が変わってくる。だから大きくなくても目標は持ったほうがいいと思います。少し先の目標を持つだけで、時間の使い方が変わってくるはずなので」
20代の自分
26歳頃の自宅前のショット。「リーバイス®のセカンドGジャンは関西の古着店で買ったお宝。今も古着は好きで、普段の格好も当時とあまり変わっていません」
Ryota Iwai
岩井 良太 / AURALEEのデザイナー_38歳
1983年生まれ、兵庫県出身。地元の大学を卒業後、上京して文化服装学院夜間部に入学。アパレルブランドを経て、2015年春夏にオーラリーをスタート。2017年には南青山に路面店をオープン。2018年に「FASHION PRIZE OF TOKYO」を受賞し、パリで2019年秋冬コレクションを発表。同年、「第37回毎日ファッション大賞」でも新人賞・資生堂奨励賞を受賞。グローバルにファン層を広げている。
Information
春夏ものの商品がすべて店頭に出そろう3月。今季は神戸の職人とタッグを組んで製作した初のレザースリッパや、新作のデニムのコレクションが自信作。
Photo:Takahiro Otsuji[go relax E more] Interview & Text:Hisami Kotakemori
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