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この人が手がける翻訳を通して、アメリカ文学の奥深き世界に出会ったという人は多いはず。ポール・オースター、スチュアート・ダイベック、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウンをはじめ、現代アメリカ作家の翻訳を数多く送り出してきた。最新の仕事は、ポール・オースターの最後の大長編『4321』。「翻訳しているときは常に楽しいし、訳したい作家はまだまだたくさんいる」。そう語るこの人にインタビュー。
ポール・オースターとの
出会いと思い出
――ポール・オースターの『4321』が刊行されました。800ページにも及ぶこの本は、2024年4月に亡くなったオースターの作家人生の総決算と言われています。
柴田 『4321』はオースターの最後から2番目の長編小説になるのですが、最後の作品は割と短いこともあって、この本が一種の集大成みたいに見えてしまうのだろうと思います。舞台は1960年代の後半で、世界中、特にアメリカは激動の時代を迎え、オースター自身も多感な青春時代を送った時期と重なります。彼にとっていろいろな意味で最も重要だった時代であり、この時代が長編小説の舞台になるのは3度目です。そういった点からも、集大成みたいに見えてしまうのは避けられないと思うのですが、僕自身、ひとりの読者として読んだとき、「人生のまとめに入ったな」というよりは、「この年齢になってもまた新しいことを始めたな」というふうに思いました。
――具体的にどういうところが新しいと思ったのですか?
柴田 どう新しいかというのは、読者一人ひとりに発見してもらいたいので、なかなか言いづらいんですよ。こういう形で書かれた小説というのは今までほとんどなかっただろうと思います。読んでいて、「あれ?」と思う瞬間が必ずあるはずなんですね。それを具体的に明かすことはできませんが、とにかくオースターがこの本を出したのは70歳ぐらいのときで、その年齢で依然新しいことをやって、しっかり成果を挙げていることがすばらしいと思います。
――オースターは日本でも大変人気があります。とはいえ、これから触れる人もいるので、あらためてどういった存在なのか、教えてもらえますか。
柴田 まず現代アメリカ小説の流れみたいなものがあり、例えば1940年代、50年代に黒人やユダヤ系の作家が出てきて、それまで白人男性中心だった文学の幅が広がっていき、60年代、70年代になると、いわゆるポストモダン小説といわれる実験的な小説が生まれ、またそこで新しいフェーズが出てきます。こういう感じで、10年、20年サイクルで変わっていくわけですけれども、オースターが1985年に小説家としてデビューしたとき、何かまたひとつ新しい流れが出てきたなと思いました。ひと言で言うと、物語の面白さの復権ですね。本人たちはそう思っていないので、ちょっと口ごもった言い方になってしまうのですが、読みやすくても深いものは書けるんだということを見せてくれたのが、日本では村上春樹さんであり、アメリカではオースターだと思います。そういう意味に限れば、やっぱりふたりは共通しています。
半年ずれていたら、
どうなっていたかわからない
――柴田さんはオースター作品を30年以上にわたって翻訳していますが、出会いはどんな形だったのですか?
柴田 最初は普通に本屋さんで手に取って、「面白い作家がいるな」と。その頃は翻訳をやろうとか全然考えていなかったので、一読者として出会いました。その後、いろいろな成り行きがあって翻訳の仕事をするようになったときに、まずやりたいと思ったのがオースターです。「こんなに面白い作家だから当然訳されているだろう」と思ったら、全然訳されていないことに驚きました。白水社に『ガラスの街』の版権を取ってもらって訳し始めたんですけど、急に電話がかかってきて、「『ガラスの街』の版権はすでに角川書店に売っていて、そのことをエージェントが忘れていた」と言われて(笑)。それくらいあまり注目されていない作家だったわけですね。
――今の評価を考えると意外です。
柴田 『ガラスの街』はもう他社が版権を取ってしまっていたので、第2作の『幽霊たち』を新潮社から出すということで訳すことになって。翻訳を進めていたら、あるとき高橋源一郎さんから新潮社に、「オースターという作家がいるんだけど、すごく面白いから、訳したい」という連絡があったそうです。もし高橋さんがオースターを発見するのがあと半年早かったら、僕が訳すことはなかったかもしれない。だから、本当にそれはもうラッキーとしか言いようがないです。
――いまやオースターといえば柴田訳ですし、おふたりの間には単に小説家と翻訳者の関係にとどまらない深いつながりがありますよね。
柴田 あまり強調すると本人は嫌がるんだけど、彼の中にはやっぱり父と子の関係というのがすごく大きくあって、その変形として兄と弟という関係も大事な気がするんですよね。オースターは僕より7つ年上だから、本当にすごく出来のいい兄貴と話しているような感覚がありました。もう何ひとつかなうところがないんですよ。日本語の翻訳は僕のほうができるとしても、彼はフランス語の優れた翻訳者でもありましたし、スポーツも万能でハンサム。すばらしく出来がよくて優しい兄が、出来の悪い弟にもなぜかつき合ってくれるという感じでしたね。
――これをきっかけにオースターを読んでみたいと思ったメンズノンノ読者に向けて、最初におすすめする作品は何ですか?
柴田 若ければ『ムーン・パレス』です。読者といろいろ話していると、中学から大学までの時期に『ムーン・パレス』に出会ってすごく刺さったという人がとても多い。と言いながら、どの作品でもいいんですよ。幸い新潮文庫にけっこうあるので、本屋に行って最初の段落を読んでいちばん響いたものを選ぶのでもいいと思います。
「正確であることよりも、面白いことのほうが大事。でも、面白さを伝えるためには正確に訳すことがいちばん」
100人が訳せば
100通りの翻訳がある
――翻訳するときの自分なりのルールみたいなものはあるのですか?
柴田 事務的なルールみたいなものはなくはないけど、いちばん大切だと思うのは、「伝えるべきは正確さ以上に面白さ」ということです。正確であることよりも、面白いことのほうが大事。でもたいていの場合、面白さを伝えるためには正確に訳すことがいちばんなんですよね。
――100%正確に訳すということを常に意識しているのですか?
柴田 翻訳というのは近似値でしかないので。100%とか、正しい翻訳とか、そういう言い方はできないです。ただ、小説がありがたいのは、詩と違ってある程度長いから、ここではいまひとつ伝わらないなと思っても、こっちで何となく伝わる、ということがある。詩だと「この点が伝わらなければ面白さが死ぬな」というのはありますけど、小説は「このニュアンスが翻訳で伝わらなければ面白さは伝わらない」とか、そういうふうには考えなくていいので、そこは違います。正解の翻訳というのはなくて、100人が訳せば100通りの翻訳があるし、その中でどれがいい・悪いというのはある程度言えますが、どれが厳密な意味で正しいというのは言えないですね。厳密に正しい翻訳というのは、1分の1の地図みたいなもので、現実にはあり得ないです。
――では、翻訳の楽しさ、喜びはどういったときに感じられるのですか?
柴田 いくつかあって、まず翻訳しているときは常に楽しいです。自分にはクリエイティブな才能はないので、作家が小説を書くというクリエイティブな行為に、翻訳という作業を通してかなり直接的に関われるのは大きな喜びですね。気分がノッて翻訳しているときは、あたかも自分で書いているような気分になります。それは錯覚にすぎないわけだけど、とにかく翻訳しているときは常に楽しいです。
――時間があればずっと訳していたいと思いますか?
柴田 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが作家になりたい人に向けて、「とにかく作家というのは大変だから、そんな簡単になりたいとか考えないほうがいい」ということを言っています。そのうえで、「もしあなたの小説が死ぬまで1冊も出版されないことが決まっていたとしても、書きたいと思ったら書きなさい」と。で、自分は翻訳者としてどうかと考えると、誰も読んでくれないことが最初から決まっているのに次々訳すかというと……その自信はないです(笑)。やっぱり読者がいて読んでくれるというのが大きな支えになっていますね。
――最近はAIによる翻訳も目覚ましい進化を遂げています。近い将来、小説の翻訳も機械が行うという時代がやってくると思いますか?
柴田 ある程度はそうなるでしょうね。今だって一流の翻訳者には及ばないかもしれないけれども、二流の翻訳者よりはいい訳ができるみたいだし、スピードからいえば一流の翻訳者の1万倍ぐらい速い。それってもう一流の翻訳者ですよね。だから、これから翻訳を職業としていく人たちは大変だと思います。かなりの部分は機械でできるようになっていくので。いい翻訳にするには最終的に人間が手を入れなきゃダメなんだという人もいるけれど、その部分はどんどん減っていくだろうし。でも、テクノロジーというのはそういうものじゃないですか。すごく硬い木があって、普通のノコギリで切るには熟練のプロの技がなきゃダメだけど、チェーンソーがあれば誰でも簡単に切れる。そういうふうにプロしかできないことを誰でもできるようにするのがテクノロジーだから、AI翻訳も同じことなんだと思います。
――現時点で訳してみたいなと思う本はどれくらいあるのですか?
柴田 時間があればいくらでもやりたいです。やりたいのですが、今すでに出版社と約束している本を並べただけでも、「本当に死ぬまでにできるのか」と心配になります。もう70歳ですから、なるべく増やさないようにしていますけど、訳したいと思う本は現代小説だけでもたくさんあるし、古典をやろうと思ったら本当にキリがないです。ありがたいことにこの作家は僕が訳すという流れがあって、各作家に次の作品を待ってくれている読者がいます。オースターもそうですし、スティーヴン・ミルハウザーとか、スティーヴ・エリクソンとか、そういう人たちの作品をやって、さらに新しい作家もやるというのは、まぁ大変です。なので、やりたい気持ちはあるけど、決して大きな声では言えないかな(笑)。
『4321』
ポール・オースター[著]、
柴田元幸[訳]
¥7,150/新潮社
1947年、ユダヤ系の家庭に生まれたアーチボルド・ファーガソンの、驚くべき仕掛けに満ちた成長物語。ドジャースL.A.移転、ケネディ暗殺、ベトナム反戦運動。50~70年代のアメリカを生きる若者の姿を、緻密で独創的な四重奏で描く。「この本を書くために一生待ち続けていたような気がする」というポール・オースターの、作家人生の総決算となる大長編。
LITERARY TRANSLATOR / MOTOYUKI SHIBATA
柴田元幸
1954年生まれ、東京都出身。アメリカ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授、早稲田大学特命教授。ポール・オースター、スチュアート・ダイベック、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウンなど、現代アメリカ作家の翻訳を数多く手がける。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。
Photos:Go Tanabe Composition & Text:Masayuki Sawada
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