▼ WPの本文 ▼
ちょっとした懐かしさと、ほろっとした哀愁を感じる喫茶店にまつわるエッセイを、今「Twitter文学」で話題の麻布競馬場さんが特別に書き下ろし!
僕が慶應で大学生をやっていた頃、東横線の日吉駅の近くに「まりも」という喫茶店があった。誰かとお茶をするにしても、安く済ませるなら学食があるし、駅前にはスタバがあるしで、「まりも」の存在は認知しつつも結局一度しか行かなかった。その「一度」で、僕が無理して頼んだホットコーヒーと、彼女が何てことなしに頼んだアイスミルクの話をしたい。
映画だか演劇だかのサークルの新歓で知り合って、同じサークルには入らなかったけど、学部が同じだったからその後も何度か会っていた女の子がいた。都内の有名なお嬢様女子校出身のちょっとサブカルっぽい女の子で、話が合って、目はパッチリとしたきれいな二重で、早い話、僕はその子のことが少し気になっていた。
その日の午前は一般教養の講義があって、その子も同じ講義を取っていたから一緒に受けた。大教室の後ろの席で横並び。ドキドキしたらお腹が空いた。ちょうど12時前だったからお昼に誘った。いいよ、と言われて、僕なりに少し気取ったパスタ屋に行った。ここよく行くんだよね、みたいな顔をしていたけど、実のところ当時は男友達と家系ラーメンばかり食べていた。
「次の講義まで時間あるからお茶しようよ」と、彼女が僕を連れて行ってくれたのが例の「まりも」だった。煉瓦調のいかにもレトロな外壁には「珈琲」の文字。ドアを開けば深い飴色やくすんだクリーム色のしっとりとした内装。この手の喫茶店は初めてだった。僕が生まれ育った西日本の地方都市では、デートと言えばスタバでキャラメルフラペチーノを飲むのが当たり前だった。言われてみると地元にもレトロな喫茶店はあった気はしたけど、当時の僕はそこに価値を見出すことはなかった。
(こ、これが東京の肩の力の抜けたオシャレ……)東京生まれ東京育ちの彼女から、冷や水を浴びせられたような気がした。それは歓迎のいたずらかもしれないし、侵入者への警告かもしれなかった。でもたぶん、彼女にはそんな意図はなくて、スタバよりは席が取りやすそうだとか、今日はそういう気分だったとか、ただそういう何てことのない、肩の力の抜けた理由だったんだと思う。
一方、肩にガチガチに力が入った僕はホットコーヒーを頼んだ。こういうお店に相応しい振る舞いだと思ったから。ここはきっと若者のための場ではなくて、「スタバでキャラメルフラペチーノ飲むなんて(笑)」と目配せし合う「一周回った大人たち」のための場なんだろうと、よく知りもしないのに決めつけたから。ゴルゴ13や007(今思うと007は紅茶のほうが似合うかもしれない)のように、初夏を通り越して夏みたいな暑い日でも、涼しい顔してホットコーヒーを、もちろんブラックで飲むのが筋だと思ったから。
「暑くない? 私アイスミルクにする」
やられた、と思った。アイスミルク。スーパーで買えば1リットルで200円程度の牛乳を、かわいらしいサイズのグラスになみなみと注いだ「圧倒的に肩の力の抜けた飲み物」に彼女はストローを突っ込んで、ハチドリのようにチューチューと吸い込んだ。その姿はあまりに自由で、しかしそれでいて優雅で、それこそがこの店に相応しい振る舞いのように見えた。田舎で18年育ってきた僕と、東京で18年育ってきた彼女との間には、永遠に埋めがたい「センス」の差があるようにすら思えた。僕は絶望的な気持ちで飲みたくもないホットコーヒーを啜った。
別にその時の自意識の爆発のせいなんかではなく、単に遊ぶ友達が固まっていく中で彼女とは会わなくなって、でも翌年の秋の22時くらいに突然LINEが来て日吉に呼びつけられて、客もまばらな居酒屋のカウンターで彼女は「演劇サークルのOBでテレビ局勤務の男と付き合ってるけど、どうも私とは別に本命の彼女がいるらしい」とさめざめと泣きながら相談してきて、「はあ~そう言われましても……大変ですねぇ……」と僕は曖昧に笑っていた。
二、三杯飲んで解散した。二人とも東横線の終電に乗って、僕は当時一人暮らしをしていた新丸子駅で先に降りた。彼女の乗った電車が走り出すのを僕は振り返らなかった。もう彼女のことなんて忘れていたようなものなのに、勝手に失恋させられた気がして、怒りでも悲しみでもなく、変に惨めな気持ちだけが胸にへばりついて、改札を出た先の24時間営業の東急ストアで缶チューハイでも買って家でヤケ酒してやろうかと思ったけど、ふと目についた1リットルの牛乳を買って家でガブ飲みしてやった。こうやって無様な思いをたくさんしながら、僕は少しずつ東京の人間になってゆくのだと思った。
今年で31歳になる。東京に来て13年になる。もうグーグルマップで調べなくてもメトロの乗り換えは迷わないし、レトロ喫茶でいくつもの固いプリンをつついてきた。それでも僕は、あの日無理して飲んだホットコーヒーの熱さと、酸っぱさと、そして変に爽やかな苦さと、思い返して胃が痛くなるほどのダサさを、名誉の負傷として大事に大事に覚えておきたいなと思う。
あざぶけいばじょう
1991年生まれ。Twitterの匿名アカウント(@63cities)で投稿する小説が話題に。
9月5日に発売した初の著書『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社刊)は大きな話題となり、発売直後に大重版!
Illustration:Suzu Saito
▲ WPの本文 ▲