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【高木完 オリジナルインタビュー】80年代から現在まで、日本のカルチャーシーンを牽引するレジェンド

【高木完 オリジナルインタビュー】80年代から現在まで、日本のカルチャーシーンを牽引するレジェンド

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10代の頃にパンクバンドのヴォーカリストとしてデビュー。やがてヒップホップに夢中になり、藤原ヒロシとともに「タイニー・パンクス」を結成し、日本のヒップホップ黎明(れいめい)期を支えた。その後、日本初のヒップホップレーベル「MAJOR FORCE」を設立し、自身もソロアーティストとして活躍。今年3月には、東京ポップカルチャーの夜明けを振り返る初の単行本『東京 IN THE FLESH』を刊行したばかり。80年代から現在に至るまで、独自のセンスで日本のカルチャーシーンを牽引(けんいん)するこのレジェンドにインタビュー。

高木 完さん

MUSICIAN, DJ / KAN TAKAGI

1961年、神奈川県逗子市生まれ。79年にパンクバンド「FLESH」のヴォーカリストとしてデビュー。81年、バンド「東京ブラボー」結成。86年、藤原ヒロシとヒップホップユニット「タイニー・パンクス」結成。88年、中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O.、藤原ヒロシらと日本初のヒップホップレーベル「MAJOR FORCE」設立。90年代には5枚のソロアルバムをリリース。現在、『TOKYO M.A.A.D SPIN』(J-WAVE)で火曜のナビゲーターを担当するほか、中古レコードと古書を取り扱うお店「MEMES TOKYO」を運営。6月には『TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990』が刊行予定。


カニエ・ウェストがあんなふうになるなんて

――3月に東京ポップカルチャーの夜明けを豪華ゲストとともに振り返る『東京 IN THE FLESH』が刊行されました。意外でしたけど、これが初めての単行本なんですね。

そうなんですよ。その本の中でも何度も繰り返し言っているんですけど、「俺の話、面白いか?」っていうのがそもそもあって。自分では「ただの古い話でしょ」と思っていたんだけど、下の世代の子たちと話すと、「完さんの話、面白い」と言ってくれることも多くて。還暦を過ぎて、ちょっとはヴィンテージ感も出てきて、面白がってくれる人も増えたんですかね。

――完さんの活動はそのまま東京ポップカルチャーの歩みとリンクするというか、その現場の最前線にいた人のリアルな話はカルチャー史としてやはり面白いですし、ちゃんと聞いてみたいと思います。

自分の青春という言い方をすると気恥ずかしいけど、たまに70年代とか80年代について書かれたものを見ると、ちょっと盛られているというか、「そんなかっこいいものじゃなかったけどなぁ」みたいなことがよくあって。割とどうでもいいことから始まってたりするんですよ。例えばヒップホップのスクラッチってあるじゃないですか。あれを発明したのは、グランド・ウィザード・セオドアというDJなんですけど、彼が部屋でレコードをかけてDJやっていたら「うるさい」と母親に怒られて、文句を言われているときに手違いで頭出しでレコードをこすっている音が外に出て、「これ、意外といいじゃん」となって生まれたんですよ。

「伝説みたいに語られていることも
割とどうでもいいことから
始まってたりするんですよ」

――すごい。そういう誕生の仕方だったんですか!

今じゃ伝説みたいに語られていることもけっこう偶然から始まっていたりするんですよね。それでいうと僕は、何かが起きた瞬間みたいなときにたまたま居合わせることが多いんですよ。日本におけるパンクの始まりみたいなライヴイベントにいたり、ヒップホップとかDJカルチャーは本当に日本で始まった頃を見て知っているので、その辺の話をすると新鮮で面白いみたいです。でも、当時はヒップホップがこんなに続くとは思ってなかったですね。今や世界のポップミュージックの中心みたいになっているじゃないですか。カニエ・ウェストがあんなふうになるなんて思いもしなかった。そういえばカニエが初めて日本に来たときも居合わせているんですよ。ファレル・ウィリアムスに連れられてNIGO®に会いに来たんですけど、ラルフ ローレンか何かをかちっと着て、ものすごく礼儀正しい人でしたね。それからしばらくして香港のイベントで会ったら、そのときはもうスーパースターになっていたから、ちょっと態度が違っててびっくりしました(笑)。


ジョニー・ロットンを観て、「俺でもやれそう」と思った

――完さんと音楽との出会いっていつ頃からになるんですか?

中学のときに友達とバンドを組んで、ドラムをやっていたんだけど、やっぱり相当練習しないと無理だなと思って諦めかけていた頃に、パンクのことを知ったんです。ラモーンズとかああいうの。かっこよかったですね。ただ、僕は神奈川の逗子というところで育ったんですけど、周りにそういうのが好きそうな友達がひとりもいなくて。一緒にわーっとできる仲間がいないから、東京だったらいるかなと思って、当時お茶の水にあった文化学院という学校に通い始めるんですよ。77年の話です。

――一般的にパンクロックが始まったといわれる年ですね。

そう。そこからが始まりみたいな感じで。ただ、いざ東京の学校に通ってみたものの、僕が想像していたような感じではなくて。というのも、77年ぐらいっていわゆるPOPEYE文化の始まりぐらいのときで、パンクとかよりもスケートボードとかサーフィンとかテニスとか、基本的にアメリカンカルチャーなんですよ。陸(おか)サーファーという言葉もあって、要するにサーフィンはしないけど、ファッションだけサーファーっぽくしたり、髪型もジェリー・ロペスみたいにおかっぱにしたり、そんな感じの人が多かった。

――東京に行けば気の合う仲間がたくさんいると思っていたけど、そうではなかったと。

うん。でも、そのうちなんだかんだと知り合いも増えて、あちこち連れ回してくれる友達もできました。その人に当時アンダーグラウンドとかパンクといわれているような雰囲気のバンドが出るイベントがあると言われ、六本木にあったS-KENスタジオに連れていってもらって、そこでフリクションとかリザードとか、のちに東京ロッカーズと呼ばれるムーブメントの中心となるバンドを初めて観たんです。高校2年のときでしたけど、「うわ、何これ!」って衝撃を受けましたね。

――18歳のときにFLESHというパンクバンドのヴォーカルとしてデビューします。これはどういう流れだったんですか?

S-KENスタジオは毎週日曜にライヴをやっていて、チケット代も600円ぐらいで安かったからしょっちゅう通っているうちに顔を覚えられて、誘われたんです。それまでにもいろいろアマチュアバンドはやっていたんですけど、ヴォーカルをやるようになったのは、セックス・ピストルズの映像を観たときに、「こんな歌い方でヴォーカルができるんだったら、俺でもやれそうじゃん」と思ったんですよね。もともと目立ちたがり屋なので、ヴォーカルへの憧れはあったんです。でも、歌がうまくないとダメだと思っていて。そうした思い込みをジョニー・ロットンが壊してくれたんです。


藤原ヒロシとの最初の出会い

――20代前半の頃の夢って何だったんですか?

夢はもうその時点でかなっていたかな。東京に来て、バンドもやって、ガールフレンドもいて。当時はナイトクラブシーンができあがっている時期で、ツバキハウスがあってピテカントロプスができて、そういうカルチャーの中でどっぷりと浸(つ)かって暮らしていたので、「これが続けばいいや」って感じでしたね(笑)。

――タイニー・パンクスを組むことになる藤原ヒロシさんとの出会いはどういう感じだったのですか?

ヒロシは、僕が半分追っかけみたいな感じで大貫憲章さんとずっと一緒にいた時期があって、その頃に会っているんですよ。82年にバウ・ワウ・ワウがマッドネスと初めて日本に来たときに、大貫さんの後ろにくっついて中野サンプラザにライヴを観に行ったらこっちをじっと見ている少年がいて、そいつがバウ・ワウ・ワウのヴォーカルのアナベラそっくりで。しかも、全身ワールズエンドを着ているから、「あれは誰だ?」と思って、大貫さんに「あいつ、アナベラそっくりですね」と言ったら「あぁ、あいつ、『LONDON NITE』にもよく来てるよ」と言われて。それで後日「LONDON NITE」に遊びに行ったら本当にその少年がいて、それがヒロシだったんです。「キミ、このあいだバウ・ワウ・ワウのライヴに来てたでしょ」みたいな話になって、そうしたらヒロシはヒロシで、当時僕はセディショナリーズをよく着ていたんですけど、パンクファッションはもう廃れていた時期にそんな格好をしているのが珍しかったから気になっていたみたいで、パンクの服の話ですげぇ盛り上がったんです。そこから仲よくなって、タイニー・パンクスにつながっていった感じですね。

――ヒップホップをやり始めたきっかけは何だったんですか?

MELONの前座で、ヒロシと屋敷豪太がダモンブラザーズというユニットで出ていて、どんな音だったかはまったく覚えていないけど、何かラップのまね事みたいなのを2人でやってたんです。それを見て、「あっ、あれを俺もやろう」と思ってヒロシを誘ったのが最初だったんじゃなかったかな。あれだったらすぐにできそうと思って。簡単にすぐできそうなことをやりたがるから(笑)。それで、いとうせいこうが『ホットドッグ・プレス』という雑誌で連載していた「業界くん物語」を音源化するからといって、その企画でライヴもやるときにヒロシと僕も呼ばれて。このあたりの時期が日本のヒップホップの始まりといわれてますよね。

――そういう流れだったんですか。

というのがある一方で、ヒップホップの何に一番がーんときたかというと、同じレコードを2枚用意して、あるパートを繰り返しかけていけばそれだけで違う音楽がつくれるんだってことに気づかせてくれたことです。実は『ワイルド・スタイル』(83年)という映画が日本で公開されるときに、コールド・クラッシュ・ブラザーズとかファブ・ファイブ・フレディとか、向こうのラッパーたちがやって来て、ツバキハウスとピテカンでライヴをやったのを観ているんですけど、その時点ではまだピンとこなくて。どこで意識したかはよく覚えてないんですけど、同じレコード2枚で違うものをつくるという発想にやられて、それでヒップホップにハマっていきました。

――ちなみに、メンズノンノの読者は10代から20代が多いんですけど、その世代に向けてメッセージを伝えるとしたら何ですか?

そうですね。どんなささいなことでもいいんですけど、自分が好きなことを追求することが大事なんじゃないかなと思います。他人がどう思っているかみたいなことにとらわれるよりも、自分の好きという気持ちを信じてやり続けたほうがいいですよ。好きなことをやっていくのが一番続くだろうし、仕事イヤだなと思いながらやっている人ってやっぱり続いていかないですから。特に今の時代は誰もがランダムにいろいろなものを取り出すことができるから、そのアンチテーゼという意味合いでも、どこか職人的というか、これ一本という感じのほうが合っているような気がします。あとは、視点を変えて見ることですね。同じところからずっと見ていても変化がないんですよ。見方を変えてみることで思わぬ発見があるというか、面白いことに出会えるチャンスが増えると思います。


『東京 IN THE FLESH』

高木 完[著]
¥1,980/イースト・プレス

近田春夫、高橋盾、大貫憲章、NIGO®、小泉今日子、細野晴臣、小西康陽……。著者だから実現した豪華ゲストとのin the flesh(=生の、生きた)なトークは、東京ポップカルチャー黎明期の貴重な証言が満載!

 

Photos:Kyouhei Yamamoto Composition & Text:Masayuki Sawada

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