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人前で歌うことがパタリとなくなった。そうなると「歌うためのマインド」がおかしくなってくる。もちろん歌唱力も放っておくと衰えるが、それは鍛錬を怠らなければ保てる。歌を練習しすぎてもそれ以外で声を出す機会が減るので、声帯を酷使することなく使える。自主練するにはちょうどいい期間ともいえる。でも、ひとりで歌うのと人前で歌うのとではやはり全然違う。人前で歌うとなるとスイッチが入るし、マインドも変わる。そのファンクションだけはこのままだと鈍っていくだろうなーと懸念していた。
そんなとき、インスタライブを行った。深夜にひとり、ギターを片手に。ネットの世界で歌を歌った。いかばかりかのフォロワーたちの前とはいえ、誰が見てるかわからないような環境で歌うのは久々にほどよい緊張感があった。「なんかこの感覚、路上ライヴみたいだなー」とも思ったけど、何か違った。路上ライヴは無料だし、不特定多数の前でやるものだが、私が昔やっていたときはあくまでファンを少しでも増やし、ライヴハウスに誘導するためのものだった。そのこぢんまりした深夜のインスタライブはそれとは別物であった。SNS上とはいえ確かに視聴者=オーディエンスがいるからほぼ同じなのでは? とも思ったが、やはり何か違う。不思議なライヴであった。でもとにかく気持ちよかったし、その日はよく眠れた。翌日の朝(時間的には昼すぎだが)、昨晩のライヴのことを思い返したときにふと思った。きっとあれは「みんな、俺の歌を聴いてくれっ!」というやつに違いない、と。
私が所属するバンド[Alexandros]は路上ライヴ出身である。しかし、路上ライヴなんて嫌いだった。何が悲しくて路上用のアンプ2台とギターケース、さらに周りからの白い目も背負って、満員の電車で移動しなければいけないのか。少しでもファンを増やし、チケットを買ってもらいライヴハウスに足を運んでもらう。そのためだけだった。それ以外の理由はなかった。
だからただ単に路上ライヴをするやつらが理解できなかった。「みんな、俺の歌を聴いてくれっ」と言わんばかりにがなり声をあげ、無料CD配布はおろかSNSの告知もせず、自己満足のためだけにやっている路上ライヴミュージシャンを横目にするたびに、心の中で「家でやれよ」と罵倒していた。よくJR町田駅と小田急線町田駅の間のアーケード街で座り込んではギターを片手に好き勝手歌いまくる同い年ぐらいのやつらと言い争いにもなった。「俺たちはちゃんとファンを獲得してライヴハウスへ誘導しよう」と反面教師から教訓を学んだんだと自分に言い聞かせた。
今思えば。あれこそが「ライヴ」というものの丸裸の状態なんじゃないか、と思う。叫びたいことがあるんだよ。ぶちまけたいことがあるんだよ。でも誰かに聴いてもらいたい。別に金はいらないんだよ。そりゃもらえたらありがたいけどさ。でもそれより何よりとにかくこの胸のつかえを聴いてほしいんだよ。そのためなら逆に俺が金払うよ。UKロックというロックのジャンルではどちらかというとスノッブなものに傾倒していたかつての(今も愛しているが)私なら鼻で笑っていたであろうこのような観念が、少しは緩和されたのかもしれない。陰で泥くさいことをやっていたとしても、それを見せるのはカッコ悪いしダサい。その考えは変わらないけど、たまには毒抜きは必要だ。
「自分の、自分による、自分(とほんのちょっとだけお客さん)のためのライヴ」。そんなわがまま極まりないライヴも必要なのかもな、と宅配ピザのLサイズをひとりで食べ切った直後に思った。
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