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9周年の九州ツアーが終わりまして。2020年1月20日でデビュー10周年を迎えました。ありがたいですねー。感謝。
母校の青学でライヴをやることが決まりました。何を隠そうこのバンドは青学で結成されたので。生誕の地でライヴというのはやってみたかったことなのです。しかも文化祭ではなく、単独の公演でということで。青山学院の太っ腹には頭が下がります。あざす。
いきなりシモの話で大変恐縮だが、先日突然年上の友人(男)からLINEで「自分の●●●の写真を送ってもいいか?」と聞かれた。私は構いませんよと答え、それを受け入れた。その人はごく真面目なアートとジョークのギリギリラインの「何か」を送りたかったんだと思う(親切にも「前」と「後」の姿までセットで)。
その人は人見知りである。私は「人見知り」に魅力を感じてしまう。タイプというべきものだろうか。といってもそんじょそこらの「人見知り」ではなく、「筋金入りの人見知り」さんに対してである。
誰にもシェアすることのできない変態さを持ち合わせたばかりに、人見知りにならざるをえなかった悲しき運命を背負った人たちである。といっても「人見知りなんです」と自ら発言してしまうような「ビジネス人見知り」にはまったく興味が湧かない。時折得意げに使う人がいるけどあれは冷える。
「友達いないんです」にも近いものを感じる。誰もが認めるぐらい本当にいないなら別だけど、そんなわけない人がそれを使うと不思議な気持ちになる。単なる孤独感の演出であるか、言い訳にしているかのどちらかであり、冷える。
私の知る限り、本物の「人見知り」というのは人づき合いが意外にうまい傾向にある(あくまでも個人的な経験上)。先述した年上の友人もそうだ。少人数、多人数にかかわらず、場の取り繕い方や会話のつなぎ方が非常にうまく、コミュニケーション能力がとても高い。逆に社交性に富んでいる。おそらく幼少期から続けざるをえなかった「人見知り」と共存し、培われた結果なのだろう。「人見知りなんです」という切り札的な言い訳に頼らず、人間関係の荒波にもまれ、鍛え上げられてきたツワモノこそが本物の人見知りなのである(と、私は思う)。
そしてそういった人たちが私はたまらなく好きである。どタイプである。学生時代から今に至って、親友はなんとなくそういう人物で固められていた。底なしに面白く、それなりに友人も多いんだけど、よく会話を聞くと皮肉めいた発言が見え隠れしてるし、陰めいた表情が漏れる。決して内の内までは見せることがない、もしくは見せる方法を知らない。そしてとんでもない変態が多い。そんなタイプの人に私はどうしても惹かれる。
多分、弱点を持ち合わせたヒーロー的な側面があるからだと思う。ヴィランだとすると、憎めない部分。キザな言い方をすればそんな十字架を背負って生き延びてきた姿にグッときてしまうのだ。
そして彼らは大事なことを教えてくれる。それは自分の境遇に言い訳をしない、ということ。手放しではとてもじゃないけど社会に溶け込めない性格を何とかして社会にフィットできるように仕立てるわけだからね。素直に感服する。
学生から社会人になるタイミングの読者の方も多いはず。何か底にある大事な、変態的な部分を失ってしまうような気がしているならそんな心配はいらない。形は変われども、中身は結局変わらない。ファッションのように季節が変われば装いは変わるけど、その中に潜んだパンツ、もっというと●●●は変わらないのだから。
若者よ、変態であれ。
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