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服好きに支持されるブランドのデザイナーにフォーカス。彼らはどのようにしてデザイナーになったのか? コレクションを通して伝えたいことは何か? これから、どんなクリエイションをしていくのか? デザイナーの過去、現在、未来のストーリーをロングインタビュー。
第11回は世界で活躍するデザイナーを輩出している装苑賞で、グランプリに輝いた経歴を持つ玉田達也のタム。日本を代表するコレクションブランドを経て独立した、将来有望なデザイナーがコンテストマニアだった理由とは?
タム デザイナー
玉田達也 さん
1988年、福島県生まれ。文化服装学院服装科、デザイン専攻、ファッション高度専門士科を経て、パリに留学。帰国後の2015年から、コレクションブランドのメンズパタンナーとして6年間働く。2021年に独立してタムを立ち上げ、秋冬コレクションを発表。2022年春夏コレクションから本格的にスタート。
BRAND PROFILE
Tamme(タム)
2021年秋冬にブルゾン、パンツなど6型からスタート。 “既存の更新”をコンセプトに、クラシックとモダンを内包した多様性のあるコレクションを展開する。精妙にデザインされたマルチユースアイテムでファンを獲得。5シーズン目となる2023年秋冬コレクションのデリバリーが7月からスタート。
INTERVIEW
1_幼少期から学生時代
作品製作の資金づくりのため
次々とコンテストを制覇
――高田賢三さんや山本耀司さんら、大先輩も名を連ねる装苑賞を受賞したデザイナーが、この連載に登場するのは初めてです! 玉田さんがデザイナーを目指したきっかけは、何だったんですか?
母が趣味の手芸でいろいろなものをつくっていました。それで子どもの頃から母といっしょに手芸を始め、それがきっかけでものをつくることが好きになっていったというのが、僕の根っこにはあるかもしません。
――お母様の影響! ファッションに目覚めたきかっけは?
高校に入る前ですね。特にきっかけはないんですが、中三のときに部活が終わって時間ができたからだと思います。ファッションに興味が出てきて『メンズノンノ』や『スマート』など、雑誌を買うようになりました。
――そこからどんな経緯があったんでしょう。
高校時代は部活をせず、その分、自分の好きなことをする時間が増えて、服にのめり込んでいきました。僕の地元の福島市はデザイナーズブランドを扱っているようなお店があまりなかったので、やはり古着屋に行くわけですよ。そこでブランド古着を見るようになって、「もっと欲しい!」と、仙台まで足を伸ばすようになり…。
――当時はどんなブランドが好きでした?
高校1、2年の頃はドメスティックブランドの全盛期でした。実際に買ったりしたのはアタッチメントやナンバー44のオリジナルブランドとか。
――ナンバー44は原宿のとんちゃん通りにお店がありました。ヨーロッパのミリタリー古着やインポートウエアも扱うセレクトショップで、オリジナルブランドは確か「0000(ゼロゼロゼロゼロ)」。いいお店でしたね。
僕が文化服装学院に入学したときは、まだありました(1997年にオープンして2014年に閉店)。
――文化服装学院に進学しようと思ったのは?
高校時代に将来何がやりたいかと考えたとき、やっぱり手に職をつけたいと。自分が好きなことを挙げた中で、いちばんしっくりきたのが洋服をつくるデザイナーでした。将来の具体的な道筋が想像できたので、それから古着のリメイクを始めて。
――ほかにはどんな選択肢があったんですか。
美容師とか、中学時代からアコギを弾いていたので、ギタークラフトマンとか。
――そうだったんですね。文化服装学院に入学した後は、最終的に大学院まで進学しました。
文化時代は服をつくることにのめり込んで、本当にずっと作品をつくっていたんですよ。服装科の3年が終わったあとも、まだつくりたいという思いが強くて、ずっと学生でいました。
―――親御さんは理解があったんですか?
理解はありました。国家公務員が多い家系で、この業界のことがわからないというのが正直なところだったようで「わからないからやってみればいい」と。大学院は奨学金制度を利用しましたし、洋服の製作費はコンテンスト活動の賞金をあてていました。
――ステータスのためでなく、作品の資金づくりのためにコンテストに!?
そうですね。本格的にコンテンストに参加するようになったのは4年次のデザイン専攻時代で、そのときに初めて入賞して賞金をいただいて。「あ、これを回していけば作品がつくれる!」と思って。
――自分の好きな服を買うとか、遊ぶためではなく……なるほど。
服は自分でつくった服を着ていましたから。単純に自分がつくったものが評価されて、それを通して世の中とつながることができる。デザイナーを目指した理由とも重なるんですが、自分がある思いをこめてつくったものを、ほかの人が客観的に見て評価するシステムも面白いと思っていました。
――装苑賞は賞金が100万円ですが、ほかのコンテストはどのぐらい?
「ナゴヤファッションコンテスト」も100万円でした。都市で開催されるコンテストは賞金も大きかったですね。静岡県の産地と提携していた「浜松シティファッションコンペ」も、確か50万円だったかと。パリへの留学も、入賞するとエスモードのパリ校に1年間在籍できる「神戸ファッションコンテスト」で、行かせていただきました。パリではクリエーションと環境を勉強しました。
――留学もコンテストの副賞! 筋金入りですね。装苑賞をはじめ、コンテストでは退廃的作風で知られるポーランドの画家ズジスワフ・ベクシンスキーの作品にインスピレーションを得た作品で受賞されていました。
僕の場合、単発でテーマを決めてコンテストに応募するのではなく、学校のカリキュラムと連動して、そこで取り上げているテーマやディテールに沿ってコンテストの作品もつくっていました。ものづくりで一番考えなければいけないのは、「衣服と身体の関係性」です。当時は連続性が面白いと感じてディテールに取り入れていました。基本的なテーマは今も変わらずですが、タムになってからは身体や衣服に環境が加わって、もう少し大きな円でものづくりをしています。
2_パリ留学からデザイナーになるまで
ファッションにはビジネスの視点が
必要だと気づかされたパリ留学
――パリに留学したのはやはりデザイナーになるからには、パリに行かねばとという気持ちがあったからですか?
ありました。何ならパリで就職したかった。文化服装学院に入学したときから世界で活躍するデザイナーになりたいと思っていたので、その主戦場であるパリの空気感だったり、現地の学生がどういうスタンスでものづくりをしているのか? 絶対見ておかないといけないことだと思っていました。
――パリではインターンの経験も?
学校のほかにインターン期間もあったんですが、インターンには行かずにコンテスト活動をしていました。
――パリでもコンテスト!
ただ、パリでは賞が取れなくて。そこで初めて「ファッションとビジネス」「衣服と芸術」の関係性を考えるようになったんです。
――ただつくっているだけではダメだと。
それまでは「自分の思いをダイレクトに表現したものが、たまたま服の形をしている」というものづくりだったんです。留学して、パリの人たちが何をつくっているかを見て、コンテストに応募してダメだった理由を考えたときに、人が着ることを大前提に考えること。かつ、ファッションである以上、それはビジネスであると気づいた。…というか、思い知らされた。
――日本では造形的な美が評価されたが、パリでは「売れる」という視点が必要だったということですか?
売れるということではなく、当時の日本のコンテストは「服をつくる」ことが主だったんですよ。海外のコンテストで求められるのは「スタイル」をつくることなんです。
――わかるようで、わからない…。
たとえば、ジャケットとパンツがあるとして、そこに誰も思いつかないディテールが少し入っている。それを着て街を歩いたとしてもおかしくないし、洋服、スタイルとして洗練されたものであることが求められていたんです。手工芸的なことではなく、オリジナリティやもっと概念的なことが評価される。当時僕はそんなふうに感じました。
――腑に落ちました。
人が着るもの、人に着せるものをつくるということを頭に入れると、それは結局、ビジネスにつながる。だから、そこをきちんとしなければいけないと思って、日本で仕事をしようと帰国したんです。
日本に戻ってしばらくは、オーダーメイドで服をつくって報酬をもらうという活動をしていました。ただ、「このまま続けて生活していけるのか?」と疑問を持って、デザイナーとして業界でやっていくなら、一度きちんとした企業に入って学ぶべきだと思い、自分のコンセプトやクリエーションに親和性を感じるブランドに就職しました。
――将来的にコレクションブランドをやりたいから、グローバルなブランドを選んだんですよね。パタンナーとして入ったのはどうして?
コレクションブランドではデザイナー職とは別に、企画パタンナーが現場でものづくりに携わっていることが多くあります。ブランドの中で、全体的な動きを把握できるポジションでもあるので、そこを狙いました。
――独立の時期はどのようにして決めたのでしょう。
漠然とですが、33歳までに何かアクションを起こしたいとは思っていました。入社したブランドの中で、ある程度の信頼を得るまでは勤めあげようとも決めていて、そういう実感を得られたのがちょうど33歳のときで。
――約6年間、いろいろなことを学んだわけですね。
はい。それで独立してまず、文化服装学院時代の友人と会社を立ち上げました。タムはその会社のひとつの事業部として展開しています。タムがコレクションブランドに成長して地盤ができたら、将来的に別の事業を展開することもできます。例えばメンバーのひとりは、ハワイで自転車屋さんをやりたいと言っていたり。
――え!? それは現実的な目標ですか?
(笑)現実的かどうかはさておき、自分たちの夢を実現したり、アイデンティティを保っていけるような生き方や仕事をするための会社です。会社の中で僕は、アパレルに特化して川上から川下まで携わっていきたいと考えています。学生時代に「できたらいいよね」とふわっと話していたことが実現して、3人とも専門分野が違うので、会社としての仕組みづくりもしているところです。
――お話をうかがっていると、玉田さんはすごく計画的に動いていますよね。お金のこともきちんと考えて…。
やるからには「あのときちゃんとしとけばよかった」と思うような、後悔はしたくないので。
3_タムの立ち上げ
既存のものをニュートラルな視点で
現代に再編成して更新する
――タムという名前はいつ決めたんですか?
デビューコレクションをつくる前に決めました。ブランド名に関しては、自分の名前を伏せるか出すか、すごく迷ったんですが、最終的に玉田(自分の名前)とわかるブランド名にしようと決めて。学生時代から僕のクリエーションには、固定観念にとらわれずニュートラルな視点でものづくりするというコンセプトがあるので、それをブランド名にも反映させようと思いました。
――フランス語の男性と女性、hommeとfemmeとTamadaと融合させて、Tammeにしたんですよね。
はい。対極の概念としてhommeとfemmeを挙げました。対極的な要素と要素をつなぎ合わせるのがTammeなんです。
――コンセプトは「既存の更新」とのことですが、これは例えばタムが得意とする、ミリタリーウエアとテーラリングを融合して、すでに存在するアイテムに新しい価値を与えるというようなこと?
そうです。衣服の歴史や文化にフォーカスして、既存のものをニュートラルな視点で現代に再構成することで、クラシックとモダンを内包した、多様性のある洋服を提案するのがタムのコンセプトです。僕は特定の年代のカルチャーに強く影響されたというバックボーンがなくて、強いて挙げるなら、2000年代中ごろから2010年代前半の時代のムードに影響を受けていると思います。
――裏原宿に代表されるストリートカルチャーが一段落して、ディオール オムなどのモードが台頭しました。
90年代のストリート文化が終わって、強いカルチャーが立たなくなった時代です。その頃、東京ではMIXすることが流行して。古着×モードMIXみたいに、混ぜることが主流になっていました。無意識か意識的かはわかりませんが、気づいたら僕はそこに影響を受けていた。
――タム独特のMIX感はどのように生まれてくるんでしょう。
「構造」へのこだわりですね。服のつくり方へのこだわりと、「服を着ること」を考えてほしいというメッセージからだと思います。
――「服を着ること」を考える?
服には着る人に合う形や見え方があると、僕は思うんですね。例えば一着のジャケットを、きょうはウエストを絞って着たい、前を開けて着たい、襟を立てて着たいというように、その日の気分にフィットする着方で着る。あるいは、仕事を変えたからもう少しかっちり見せたいというような、TPOに沿った着方をする。それが「服をどう着るかということについて考えること」ですが、2010年代後半ぐらいから、そこが希薄になっていると、ずっと思っているんです。
――そういう風潮は、確かにあると思います。
ファッションはただ奇抜な格好をするとか、海外のファッショニスタを模倣することじゃないよね? というようなことを感じていたので、タムの服はいろいろな着方ができたり、もしくはよく見ないと気づかないディテールがあったり。そういうスタイルにしたいと思って、「構造」にこだわっています。
4_2023AWコレクション
ブルータリズム建築に着想を得て
内と外の対比とその二面性を表現
――今回ご紹介いただく、2023年秋冬シーズンのテーマを教えてください。
テーマは“out-of”で、内と外の対比とその二面性を表現のコンセプトにしました。インスピレーションとなったのはブルータリズム建築です。
――コンクリートの打ちっぱなしに代表されるモダニズムの建築ですね。
無機質なコンクリートを使った、1950年代に提唱された様式です。そういう無機質な建物の外壁にこぼれてくる内側のあたたかな光や、窓からのぞく生活感といった、二面性や相反性を服で表現するとどうなるのか、掘り下げていきました。
――シーズンビジュアルもブルータリズム建築を背景に?
そこはダイレクトにリンクさせて、日本のブルータリズム建築を代表する国立代々木競技場(建築家の丹下健三による作品)で撮影しました。ブルータリズムが提唱された50’sのアイテムをピックアップして、外から内側を覗いているようなディテールや、コンクリートからインスパイアされたテキスタイルを混ぜて、現在のスタイル、アイテムに再編成したコレクションです。
――思い入れの強いアイテムはありますか。
このナイロンブルゾンは刺しゅうから始めたアイテムですが、コンクリートに着想を得たテキスタイルを使っています。鳥のモチーフは50年代のスーベニアジャケットから引用して、レース刺しゅう用に構成し直しました。男性的なモチーフをレースで女性的に表現しているのも、相反性や二面性につながっています。
――ポケットの後ろに青い布地が…。
左のポケットはフラシ(縫い付けられていない仕様)になっていて、動くと隙間が見えるようになっています。袖のポケットも同様です。ベースとなる形は、50年代のドイツ軍のレザー製フライトジャケットを参照しました。
――このニットも鳥のモチーフですか?
はい、鷹です。これはアメリカのニットブランド、ジャンセンの50’sのジャカードニットをサンプリングしています。ナイロンブルゾンの刺しゅうと同じ考え方で、古着からのモチーフを類似のテクニックで抽象化しています。
――刺しゅうを使ったテーラードジャケットもマルチに着られるデザインですね。
スーベニアジャケットとテーラードや、ミリタリーとテーラードを再編集したデザインは複数出していて、襟を外してノーカラージャケットにしたり、ホックを開けて表情を変えて着ることができます。
――パープルのアイテムや赤、青の差し色はどういうところから?
色に関しては軸が2つあって、ひとつはブルータリズム建築から。ル・コルビジェはブルータリズムを代表する作家で、彼が当時使った赤・青・緑をアクセントカラーとしてひろっています。パープルはスーベニアジャケットからですね。
――いろんな要素がレイヤーされていますね。
いくつかの要素を融合してひとつにする見え方が僕は好きで、掘り下げるといろいろ出てはきますが、ひとつの服として見たときに、元ネタを知らなくても、最初からそういう服があるような、完成度の高いものづくりを心がけています。
5_タムのこれから
着る人がアイデンティティを
確立できるクリエーションを
――今回で5シーズンめですが、このアイテムはずっとつくり続けたいという、ブランドの定番やアイコンのようなものはあるんですか?
それはこれからのファッションやブランドとしての在り方の話にもつながるんですが、より自分が自分であるための服。タムでいえばいろんな着方ができる服であったり、そういう着方を人が見ることで、自分と他者が違うという認識できる服。
――アイデンティティが確立できる服ということですね。
これからファッションはより複雑化、細分化されていくから、アイデンティティの確立が重要になると感じています。そういうことをきちんと発信できるブランドだけが、生き残っていくのだと。リアルだけでなく、デジタルな分野にも関連していく話です。
――デジタルというのは例えば?
すでにメタバース内で大手メゾンブランドがショーを開催していますが、デジタルで表現できることは、リアルよりも幅がものすごく広い。どんどん精度も上がっていて、リアルな自分以上に「自分」をつくることができるようになっていきます。
――リアルな自分以上?
虚像もつくり上げることができるということです。普段着飾っているけれど、メタバースの中ならもっと着飾れる。「本当はここまでやりたい」という表現ができるようになってくると思うんです。いろんな可能性があるので、そういった環境の中でも、ちゃんと自分を支えてくれると認識されるブランドが残っていくと。
――玉田さんの頭の中には、デジタル戦略まであるんですね。
(笑)まだ全然準備はできていませんが、自分たちの地盤が整ったら、いずれ。リアルに着ること以上の価値も、そこに生まれてくると思うんですよ。そういうことにはポジティブに対応できるようにしていきたいと思います。
――本当にいろいろなことを考えていますね。考えすぎて行き詰まったり、スランプに陥るみたいなことはないですか?
あります。これをやりたいけれど形にできないとか、どういう構造にしたらいいか思いつかないとか。ただ、自分がやりたい表現に対して「どうアプローチするか」を掘り下げることがコレクションブランドだと思うので、その思いにのっとって挑戦を続けています。
――これだけ複雑な服なので、例えば工場から「量産は無理です」みたいに言われることが、あったりするのではないでしょうか?
それは今のところないですね。僕はサンプルをトワル(一般的にシーチング生地)ではなく、ほぼ実物の生地で縫い上げ、始末まで自分で決めています。パターンもデザイン化の延長として自分で引いているので、サンプルができれば基本的には量産もできますし、仕様などをきちんと説明した上で、生産管理担当が生産できる工場を探してきてくれるので。
――え!? これが玉田さんの縫ったサンプル?
金具などは変わることもありますが、基本的に全部このようにして縫いあげます。
――本当にものづくりの人なんですね…。
実物を見ないとどうしてもわからないことも、時にあります。そういうときは実物を見に行ったり、買えるものは買ったりもしますが、僕が心惹かれるヴィンテージは、さすがに全部は買えません(笑)。参照している古着を買い集めて、いつか倉庫をつくりたいです。
――目標としてはパリコレクションの公式スケジュール入りを挙げています。
そこには段階があると思うので、東コレに参加するのもひとつのステップではありますし、国内外のプライズでそういう機会を得ることもルートのひとつだと思います。
――何らかの形でランウェイをしたいということですね。
はい。ディテールもシルエットも、人の身体が入って立体で見たときに一番いい見え方が正解だと思うんです。人が着て、360度の視点で見てカッコいい服、自分が着たいと思える服をつくっているので、動かして見せることがタムにとってベストだと思っています。動かして見せるのであれば映像という形式もありますが、ランウェイは僕の夢でもありますので。
――もうひとつ「恒久的に継続できる仕組みづくり」をブランドの将来の課題として挙げてます。
今は僕の頭の中でミキサーにかけてつくっているものづくりを、言語化してシステム的につくることができたら、ブランドも会社も続いていくと思うんですよ。
――ブランドの確固たるスタイルや特長を言い表す言葉ということですか? 例えばメゾン マルジェラの「解体再構築」やサカイの「ハイブリッド」のような?
そうですね。ラフシモンズの「ユースカルチャー」も然りですが、そのワードを出されると自ずとブランドが思い浮かぶ。それは素直にすごいなと思うんです。そのしくみができれば、タムというブランドネームがついていなくても、面白いとい思ってもらえるものづくりができるんじゃないかと。デザイナーはみんなそれを探していると思います。
Photos:Kenta Watanabe(portrait&report) Composition & Text:Hisami Kotakemori
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