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服好きに支持されるブランドのデザイナーにフォーカス。彼らはどのようにしてデザイナーになったのか? コレクションを通して伝えたいことは何か? これから、どんなクリエイションをしていくのか? デザイナーの過去、現在、未来のストーリーをロングインタビュー。
第10回は今年2月に秩父宮ラグビー場で開催した、初のランウェイショーが大反響を呼んだコグノーメン。デザイナーの大江マイケル仁は、Jリーグ開幕前年に日本人の父とイギリス人の母のもとに生まれ、東京で育った。プロ選手を夢見たサッカー少年は、なぜファッションデザイナーになったのか?
コグノーメンデザイナー
大江マイケル仁 さん
1992年、東京都生まれ。高校時代に1年間、ブラジルに留学。文化服装学院ファッション高度専門士科に進学し、2015年に卒業。在学中から国内のデザイナーズブランドでインターンを開始し、卒業後は同ブランドのデザイナーアシスタントとして研鑽を積む。2019年に独立して、コグノーメンを立ち上げる。今年2月に、初のランウェイショーを開催。
BRAND PROFILE
COGNOMEN(コグノーメン)
2020~2021年秋冬コレクションでデビュー。イギリスやサッカーなど自身のルーツを反映する、モード感のあるストリートクローズが持ち味。ものづくりへの真摯な姿勢も、高く評価される。2023年春夏アイテムのデリバリーは完了しているので、ぜひ店頭でチェックしてほしい。
INTERVIEW
1_幼少期から留学まで
デザイナーになるために
世界を見ておきたいと留学
――大江さんはイギリスと日本のミックスということですが、生まれ育ったのは東京ですよね。
はい。イギリス人の母は出張で日本に来て、仕事を通して父に出会ったそうです。その後、仕事を辞めて日本に嫁いできたので、僕は東京で生まれて、東京で育ちました。子どもの頃、父とは日本語、母とは英語で会話をしていましたが、母の日本語の上達が早くて。いつの間にか母とも日本語で会話するようになりました。
――公立の学校に通われていたんですか?
小学校までは公立でしたが、中学から拝島にある啓明学園に進学しました。もともと三井家が帰国子女のためにつくった学校なので、在校生の半分くらいが帰国子女。しかもインターナショナルスクールのようにアメリカ、イギリスだけじゃなく、ケニアとかドイツとかモンゴルとか。国も人種もバラエティに富んでいました。
――大江さんの根幹にある「多文化性」のルーツが、そこにあったんですね。
僕は公立の学校にそのまま友だちと行きたかったですけどね(苦)。啓明学園は英語のクラスがネイティブスピーカーとそうでない生徒に分かれ、ネイティブクラスも上と下の2つに分かれていました。僕はネイティブの下のレベルでしたが、難しい英語を学べてよかったと思っています。
――高校生のときにブラジルに留学されたのは、学校の制度で?
それはロータリークラブの留学制度でした。試験に合格すると無料で海外留学させてもらえて、お小遣いまで出るという素晴らしい制度があって。留学先は20か国ほどある中から選ぶんですが、どうして行きたいか? をプレゼンして認められれば、希望する国に派遣してもらえるんです。
――サッカー留学かと思っていましたが、違うんですね。
サッカーは高校1年生まで、三鷹にある横河電機のクラブチームに入って真剣に取り組んでいましたね。でも、留学すると決めたときにチームを辞めました。ブラジルに行きたかったのはサッカーがらみではなく、日本から地球に穴を掘ったらブラジルに着くっていうじゃないですか? 真逆側にある国が見たかったんです。日本とは全然違う国なんだろうなと思って。
――サッカーができるから、現地でも友だちがすぐにできたんじゃないですか。
そうですね。サッカーを通して友だちもたくさんできて、2~3か月で日常会話には苦労しなくなりました。留学中はホストファミリーの家で暮らすんですが、1年間の間に3つのファミリーを体験しなければならないというルールがあって。それもリアルなブラジルを知るきっかけになりました。
――リアルなブラジルというのは?
ブラジルは混血国家なんですよ。だからホストファミリーも最初はイタリア系、2つめはアマゾンのインディオと白人の混血、最後はポルトガル系でした。日系人も多いし、ブラジルに行くと誰でもブラジル人になれちゃうんです。僕はそもそも混血だから、よくブラジル人と間違われていました。
――サッカーを真剣にやっていたそうですが、プロ選手を目指していたとか。
なりたかったです。中学3年生くらいまで本気で思ってました。ただ僕の世代はすごく強くて、同年代の日本代表は13歳のとき強豪国を大差で破って世界一になった実力です。小野伸二や稲本潤一がいた「黄金世代」を超える「プラチナ世代」と呼ばれていました。
――柴崎 岳、武藤嘉紀などの1992年組のことですね?
だから対戦するのがそういう選手たちばかりだったので、プロ選手になるのは無理だろうなと。それでサッカー選手以上に壮大な、スケールの大きい職業はないだろうか? と探したときに、ファッションデザイナーに興味を持ったんです。デザイナーになるならいろんなものを見ておかないと、と思ってブラジルにも留学したんですよね。
――服がものすごく好きというのではなく、職業的な視点で選ばれたんですね。
そうですね。つくる人っていいなと思って。
2_デザイナーになるまで
インターン時代にパリの
大物デザイナーと接触
――目標を決めてからの道筋はしっかり決めていたわけですね。
文化(服装学院)に行こうと決めていました。
――職業的な視点があったから、デザイナーのアシスタントという正統派の道筋をたどられたんですね。最近は経歴がなくてもデザイナーになれる時代だし、実際にそういう人も多い。そんな中で6年間も日本のコレクションブランドでアシスタトをしたというのは、海外メゾンのデザイナーの経歴に近い気がしました。語学も堪能なら海外の学校というチョイスもあったのではないですか?
セント・マーチンズへの留学も考えていました。ただブラジルから帰ってきてすぐだったから、日本にいたいという気持ちもあったし、文化服装学院のほうが身近に感じられたので。
――在学中から国内ブランドのインターンを始めて、そのまま就職したということですが。
3年生の途中からインターンに行ったんですが、ちょうどそのブランドが海外の賞にノミネートされたタイミングだったので、通訳を兼ねてパリに同行したんですよ。パリではカール・ラガーフェルドを筆頭に、ニコラ・ジェスキエール、マーク・ジェイコブスなど錚々たるデザイナーに会って、彼らと話す機会もありました。
――それは貴重な経験をされましたね!
通訳だけでなく、デザイナーのアシタントでもあったので、毎日いっしょに行動して、プレゼンやミーティングなどひと通りのことを体験して。そのブランドはこの先も海外に出る機会がありそうだったので、そのまま就職しました。
――文化服装学院時代はどんな学生でしたか?
僕が行ったファッション高度専門士科は、普通の学科と違って4年制で、大学卒業と同じような資格が取れるコースなんですね。最初の2年間は課題が多くてそれに追われていましたが、慣れてくると文化以外の友だちをつくって遊んだり。4年生のときは自由に創作できたので、朝からインターンに行くようになって。学校よりもそっちのほうがリアルな現場がわかると、入り浸っていました。
――入社してからは、どんな仕事を?
入って2ヶ月後にはミラノで2016年春夏のランウェイショーがありました。アシスタントだけでなく、ニットの生産管理やプレスの手伝い、営業などいろいろなことを体験して、デザイナーというのは服をつくるだけじゃないということを学びました。
――具体的には?
コンセプトやデザインだけでなく、生地の選び方やアウトプットの仕方、伝え方など、服が完成するまでにはいろんなプロセスがあって、いろんな人と関わるということですね。
――前職で学んだ中でも大きかったことは何ですか。
いろいろありますが、大きなチャンスは自分から動かないとつくれないということでしょうか。
3_コグノーメン立ち上げ
アフリカの文化に触れて
見つけた自分の強み
――独立するタイミングはどうやって決めたのでしょうか。
30歳までには独立したいなと、ふわっとは思っていたんです。自分のデザインを温めていく中で「ブランドを始めたとき、自分の見られ方ってどうなるんだう?」ということが気になり出して。それは今いるブランドを辞めてみないとわからないなと思い、26歳のとき独立することにしました。
――実際にやってみないとわからないと。
ものはつくれる状態になりましたが、自分ひとりでやるならどんな服をつくるのか? それがすごく気になっていたんです。2020~2021年秋冬でデビューしようと決めて、7ヶ月くらいの準備期間がありましたが、その間にFACE.A-J(Fashion And Culture Exchange. Africa-Japan)という日本とアフリカをつなぐファッションイベントに知人から誘われて。
――2019年10月のファッションウィーク中に、東京タワーの麓にあるスターライズタワーのスタジオで開催されたイベントですね! あれは盛大なイベントでした。
そうです。FACE.A-Jは東京の後にナイジェリアでも開催されたんです。僕はそのサポートメンバーとして参加しました。
――2拠点開催だったのですか。アフリカのブランドのレベルの高さに驚いた記憶があります。
ブラジルとまた違う、南半球の世界観を再び肌で感じることができて、僕のコレクションの特長になる色使いや、(今回のショーで披露した)いろんな国の言葉で書くとか、架空のサインも、そのときの経験から生まれています。アフリカ大陸にはピジン語という母国語の違う人たちが、コミュニケーションをとるために新しく作り上げた言語があるんです。
――エスペラントのような人工語ですね。
負の歴史によって作られた言葉でもあるのですが、個人的には架空の言葉のような印象を受けました。そういう言葉が存在することを知ったので、僕自身は多文化を吸収し続けて、無国籍な世界観が漂うブランドをつくりたいという気持ちになっていきました。
――ナイジェリアで自分の色が見つかったと。
国内のブランドを辞めて、自分について考える時間が増えたので、自分のDNAは何だろう? と考えたとき、真剣にやったのはサッカーだなと。だからサッカーをスポーツテイストではなく、クリエーションとしてブランドに織り交ぜることができたら、自分に嘘のないものづくりになるなと思って。デビューコレクションからサッカー要素を入れています。
――ブランド名はいつ決めたんですか?
その7ヶ月の間に決めました。自分の名前をブランド名にしてしまうと、クリエーションと結びつきにくいし、埋もれそうな気がしたんです。いろんな言葉を調べていく中で「COGNOMEN」という言葉に出会い、ラテン語でニックネームとか愛称という意味だったのでちょうどいいなと思って。
――日本人にとっては聞きなれない言葉ですよね。ブランドのコンセプトとしては「過去の出会いと現在の出会いから、新たな人間像を創造し、COGNOMEN=愛称をつけたくなるようなモノづくり」と掲げています。
僕がつくった服を着ることで、その人の個性がより光るようなブランドにしたかったんです。
――それが「新たな人間像」。
そうしてずっと着てもらうことで愛着が湧いて、服にニックネームをつけたくなるような…。
――なるほど。
今年1月にパリで展示会をしたときに、海外の人たちが「コグノメン」と発音したり、イタリア語では「コニョーメン」として「姓」を表す言葉として残っていることも知って。人によって発音が違うのも、今になってよかったなと思いました。
――デビューからフルコレクションをつくりましたよね。
数としては最初18型くらいでしたが、布帛(ふはく)もニットも小物もつくりましたね。今は40型ぐらいまで増えました。
――デビューから作り続けている定番的なアイテムはありますか?
デビューのときからニットの反応がよいので、今(2023~2024年秋冬)では全体の3分の1がニットです。サッカーシャツのディテールを取り入れたロンTは、今のところ毎回ラインナップしています。
4_2023SSコレクション
新しい手法に置き換えて
「伝統」を自分らしく更新
――2023年春夏のテーマを教えてください。
「Re-tradition」という辞書には載っていない造語ですが、「伝統の再考」をテーマにしました。「tradition」という言葉には「伝統」のほかに「従来のやり方」という意味もあります。そこで従来のやり方を新しい方法に置き換えられないか? と、いろいろな挑戦をしました。
――例えばどんなことでしょうか。
2023年の春夏シーズンに初めてつくったソックスは、ホーズと呼ばれるドレス用の長い靴下の足底を、スケーターソックスのようなパイル編みにしたんです。表は2本ラインですが、折り返すとセンテンスともう1本のラインが表れて3本ラインになるという…。
――サッカー由来のギミックが!
そうです。トラッドとスケーターカルチャーとサッカー、3つの要素を1アイテムに整合しているんです。ほかにもオパール加工という、本来なら溶液に浸して糸を溶かすことで模様を浮かび上がらせる手法を、糸の太さや素材を変えることで同じように表現しました。このジャケットがそれですが…。
――ワントーンのストライプになっていますね。
テンセルの糸を可能な限りギリギリの細さにして、太いコットン糸との織りでストライプを表現しました。同じ染料でもテンセルのほうが色濃く染まるので、はっきりとしたストライプ柄が出てくるんですよ。ニットにもこの手法を応用してボーダー柄のベストをつくって、よりわかりやすく表現しています。
――カラフルなアイテムが多いのに、ビジュアルをモノクロで撮影したのはなぜですか?
コレクションを発表するときは、服を着る人が主役なので、あまり説明しないで、見た人にその人なりに解釈してほしいと思っているからです。
――確かに昨年秋の展示会のときは、モノクロのビジュアルだけでした。
ただ2023年春夏は、説明しないと伝わならいような、少し玄人向けのテーマになってしまったので、新たにルックを撮影して、デリバリーのタイミングで発表しました。初めてオリジナルの生地をつくったり、どこにもないようなソックスをつくったり、テーラードジャケットをつくったり。テーマ的にトラッドなアイテムが多くなり、いろいろと挑戦をしたシーズンになりました。
――思い入れの強いルックはありますか?
シャツとショーツのルックですね。リネンのショーツが上品に仕上がって、ベルトのあしらいもいい感じにできました。このプルオーバーシャツは、戦前のサッカーのユニフォームをオマージュしています。プルオーバーシャツも毎回つくっているアイテムのひとつですね。
5_ランウェイショーの手ごたえ
閉塞された時代を打ち破る
力強いメッセージ
――7シーズン目にしてランウェイショーを行いましたが、いつ頃から計画していたんですか。
本当は早ければ早いほどいいなと思っていました。コロナ禍がなければ3シーズン目くらいにやっていたかもしれません。
――ブランドを立ち上げてすぐが、緊急事態宣言というタイミングでしたよね。
僕はすごくポジティンブなんで、いろいろ考える、いいきっかけになったと思いました。
――ショーの前にはパリにも行かれたようですが、海外に行くこともショーの開催と同時に決めたんですか?
同時ですね。去年の秋くらいから、海外ではもう日常が戻ってきた感じだったので、海外に出るならこのタイミングが絶対いいなと思いました。ちょうどつくっていた2023~2024年秋冬シーズンの服も、海外で高く評価されそうな気がしたので。それで去年の10月にまず、パリにショールームを探しに行きました。
――そのときに契約したとおっしゃっていたのが「レインボーウェーブ」ショールーム。
レディースで有名な「レインボーウェーブ」がちょうど「ボーダーレス」という新しい枠組みをつくるタイミングだったらしく、コレクションを見せた友人が「コグノーメンがちょうどハマるんじゃない?」と、紹介してくれたんです。
――パリコレの時期の展示会はどうでしたか?
手ごたえはありました。ロンドンのハロッズのような老舗のバイヤーにも見てもらえたし。実際取引先も5社ほど増えました。
――秩父宮ラグビー場でのショーはあいにくの冷たい雨でしたが、それでも大盛況でしたね。文化服装学院の学生さんを大勢招待したというお話もうかがいました。
出身校なので、文化の今の生徒たちにも見てもらいたなと思って。
――2023〜2024年秋冬のテーマは「Fight for」。今までと違って、少し社会的な視点が入っていたと思います。
今回は僕自身も海外に出たり、自分の感覚が外に向いていました。同時に、わかりやすい言葉でコレクションのテーマを伝えたいとも思った。本当は「Fight for」の後には「your glory(己の栄光のために戦え)」という言葉が続くんですが、後に続く言葉は実際にショーを見た人が、それぞれが感じるものであればいいと思って「Fight for」だけにしました。個人的にはコロナ禍や戦争で世界が分断される中にも、栄光の光はあるということを伝えたかった。
――今日、ここ(展示会場)にはそのときのショーピースが展示されていますが、ショーの反響はいかがでしたか?
すごくありました。新規の問い合わせも多かったですし、何より、既存のバイヤーが喜んでくれました。時間もお金もかかりますが、感動がありますよね。ショーそのものは10分で終わってしまうんですが。
――ショーは続けていきたいと、直後の囲みインタビューでもおっしゃっていました。いずれはパリコレクションに参加したい?
いずれ海外に、という気持ちはありますが、パリにはこだわっていません。ファッションのために世界中から人が集まる街は、もしかしたら10年後には上海かもしれないし、南半球のどこかの国になっているかもしれません。だから、発表の場はどこでもいいんです。人が集まるタイミングにその場所で発表できればいいと思っています。
――秋冬の商品についてもいろいろ聞きたいことだらけです。招待状に使われたサポーターの総柄のセットアップは、ジャカードデニムだったんですね!
ジャカードデニムは2シーズン前からつくっています。いま僕が着ているのが最初のものですが、今回の柄は苦労しました。画質がいいデータだとジャカードの図案にするときに柄を拾えないので、画質が悪くなりすぎないギリギリのところで微調整して、職人さんと密にやり取りして完成しました。
――ギリギリのラインが好きですね(笑)。
それが楽しんですよ。ストレスになったら、デザイナーとして終わりですね(笑)。
――大江さんにとってファッションとは何ですか?
フリーダムじゃないですか。
――将来的にやってみたいことはありますか?
最終的には自分の工場をつくりたいです。ショーを続けることや、旗艦店をつくることはその通過点で、工場となるとだいぶハードルが高くなります。だからこそ、いろんな仲間と工場がやれたらいいですね。特殊なミシンをそろえたりして、使いたいという学生にも開放したい。撮影できるスタジオを併設してもいいですし。いろんな人が集まれる空間がつくれたら。それが目標です。
Photos:Kenta Watanabe(portrait&report) Composition & Text:Hisami Kotakemori
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