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「パリで戦うためには強烈な個性が必要なんです」 末安弘明さん [キディル デザイナー]ロングインタビュー

「パリで戦うためには強烈な個性が必要なんです」 末安弘明さん [キディル デザイナー]ロングインタビュー

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服好きに支持されるブランドのデザイナーにフォーカス。彼らはどのようにしてデザイナーになったのか? コレクションを通して伝えたいことは何か? これから、どんなクリエイションをしていくのか? デザイナーの過去、現在、未来のストーリーをロングインタビュー。

第6回はパンクという強烈な「柱」を武器に、パリコレクションに参戦するキディル。デザイナーの末安弘明さんは美容師からデザイナーに転身、成功と失敗を経験し、ブレない自分の軸=パンクに回帰した!?

末安弘明

福岡県生まれ。2003年に渡英。独学で服をつくりはじめ、ロンドンでランウェイショーを開催し話題を呼ぶ。2006年に帰国し、2014年からはキディルを始動。2017年に「TOKYO新人デザイナーファッション大賞」東京都知事賞を受賞し、2021年秋冬からはパリコレクションを発表のベースに。2022年に「TOKYO FASHION AWARD 2022」を受賞。

思春期にパンクと出会い
ロンドンに憧れる

――末安さんはもともと美容師で、キディルの前にヒロというブランドをやられていました。そのあたりのことを一時、メディアで封印されていたようですが…。

パリでコレクションを発表するようになってから、過去のことも自分の糧になっていると気づいて、それからはヒロの時代のことも話すようになりました。

――ファッションとの出会いや服好きになったきっかけは?

実家は福岡県久留米市の旅館で、一般的ですが、中学3年生ぐらいから地元のセレクトショップに行きはじめてから服が好きになり、高校に入ってからはバイトをして服買ってというサイクルです。


――その頃、どんな服を買っていたんですか?

入口としては音楽もあって、当時ビースティ・ボーイズが好きだったので、彼らがレコードジャケットで着ている服を探したりしていました。ただ、僕が通っていたセレクトショップはジャン コロナ、ジョー ケイスリー ヘイフォード、ダーク ビッケンバーグといった90年代に勢いのあったデザイナーの服を置いていたので、モードにも出会うわけですよ。

――パンクとの出会いもその頃?

そうですね。ジョン ムーアの靴に出会ったのが大きかったですね。1994~1995年頃にパンクブーム再燃みたいな流れがあって、その中でもクリストファー ネメスやジュディ ブレイム(90年代のパンクブームを牽引したスタイリスト/アーティスト)、ロンドン勢にめちゃくちゃ惹かれました。

左はジュディ・プレイムによるタブロイド「RIOT」、右は英国を代表するパンクバンド「クラス」のメンバー、ジー・バウチャーによるアートワーク集。

ジュディ・ブレイムらしい「密集」手法によるアートワークとスタイリング。

セックス・ピストルズの写真にエリザベス女王の顔をコラージュしたジー・バウチャーの作品。

――モードパンクの時代ですね!

藤原ヒロシさんとジョニオ(高橋盾)さんもそのころAFFA(Anarchy Forever Forever Anarchyの略。1994年始動)というブランドをやりはじめて、彼らもパンク好きじゃないですか? マルコム・マクラーレン(セックス・ピストルズのマネージャー、パンクの仕掛け人として有名)の存在や、その周辺のファッションや音楽カルチャーの面白さを知って、そこから独自の深掘りをはじめました。

上から:藤原ヒロシ、高木完によるヒップホップユニット「TINNIE PUNX (タイニーパンクス)」のデビューシングル、初期パンクを代表するTHE DAMNED(ザ・ダムド)のデビューアルバム、英国ハードコアパンクを代表するバンド「sedition(セディション)」のアルバム。末安さんのレコードコレクションの一部。

――裏原宿カルチャーにはパンクの要素もありますから。

そういった一連の影響もあり、福岡の美容専門学校生だった幼き僕たちも「パンクというものがあるらしい」と知るわけですよ。そっからは全身ヴィヴィアン ウエストウッド。マウテンハットをかぶってボンデージパンツをはいて…。その流れでイギリスの初期パンクなどの音楽も好きになりました。


専門学校を卒業した20歳のころの末安さん。当時から短髪。

――服飾専門学校に行きたかったのを、両親に反対されて美容系に行かれたそうですね。

専門学校に進学するなら手に職がつけられるところでないと認めないと言われて、美容系に進みました。それで美容師になって原宿の美容室で働くんですが、25歳のときに岡本太郎の『今日の芸術(こんにちのげいじゅつ)』という本を読んで、ロンドン行きを決意するんです。

『今日の芸術』(光文社知恵の森文庫)は、1954年に出版された美術評論書。絶版になるも1999年に文庫で復刊。

リメイク服が評判を呼び
「ヒロ」を立ち上げる

――この本に影響を受けたという人は多いようです。

「ナマ身で運命と対決して歓喜しろ。人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ! それが本当の意味で生きるということだ!」みたなことが書かれていて、ガツンとやられました。それで美容室を辞めて、言葉も通じない、友だちもいないロンドンへ行こうと。

――パンク好きならロンドンですよね。渡英してからの生活は?

語学学校に通いながら現地のヘアメイクのアシスタントをしたり、髪を切ってお金を稼いだり。ロンドンコレクションのシーズンは、その頃大人気だったカセットプレイヤ(ロンドンのクラブファッション系のブランド)といったブランドなど、多数のショーでヘアメイクも手伝いました。


――服をつくりはじめたきっかけは?

普段は語学学校に通うだけなので、時間があったんですよね。もともとファッションが好きだったし、ロンドンコレクションの仕事を経験して服をつくりたいという気持ちも生まれて。それで古着を買ってきてリメイクをはじめて、売ってみようと知人の雑貨店に置かせてもらったら売れたんです。しかも追加オーダーまで入って。

――最初から「ヒロ」というブランド名をつけていたんですか?

はい。自分がヒロと呼ばれていたので、ネームはヒロにしていました。ただ、ブランドとして認識されるようになったのは、ファッションショーを開いたときからです。

ロンドン時代。2回目のショーを開催したときの末安さん。古着のスウェットにリーバイスのショーツ、ワールズエンズのシューズというスタイル。

―それがヒロのデビューとされている2004年の秋冬コレクション?

ノッティング ヒルの友だちのカフェで、記念にショーをやってみようという感じで、友人たちと盛り上がりました。それがちょうどロンドンコレクションの時期と重なったので、ファッション関係の友人のつてで、ロンドンファッションウィークのスケジュールに載せてもらったんです。オフスケジュール(非公式)ショーということで。

――それが大好評だったんですよね?

僕たちとしては単純に楽しむためのイベントで、服を売るという想定ではなかったんですが、全部売れたんですよ! その頃FACTORY(原宿のカンナビス系列の伝説的セレクトショップ)のバイヤーだった南さん(南 貴之/グラフペーパーなどのクリエイティブディレクター)がやってきて、「全部買いたい」というので、それなら売ろうと。

――当時はリメイクだから、全部一点モノですよね?

ええ。渡英した当初は1年くらいで帰国しようと思っていましたが、ヒロが本格的にはじまって「違う人生がはじまった」感じでした。それでロンドンに滞在できる限りは、ここで服づくりをしようと。そのまま結局3年居ました。


ノームコア全盛期に
キディルを立ち上げ苦境に立つ

――リメイクから量産の服に変わっていったきっかけは?

2007年の春夏には当時ラブレスのバイヤーだった吉井さん(吉井雄一/後にミスター・ジェントルマンのデザイナー)からもオーダーが入り、量産化することにしました。

――量産するとなるとパターンが必要になってきますよね?

そうなんです。リメイクは自分で切ったり縫ったりするだけですが、量産するにはパターンをつくったり工場への指示書を書いたりと、別の作業が出てきます。どうしようと思っていたときにパタンナーさんと出会って。専門用語や絵の描き方を教わり、1年くらいいっしょにやってもらって。工場へオーダーする流れを勉強しましたね。

――ラッキーでしたね! 量産化するタイミングで帰国なさったということですよね?

ビザ(イギリスでは6カ月以上滞在の場合必要)が取れなかったこともあって、2006年に帰国しました。帰国後も以前から取引のあったバイヤーさんとのつながりでヒロを継続して。2012年4月に原宿で「ハニーズデッド」という店もオープンし、アンダーグラウンドのファッションシーンではヒロはステータスを確立していました。

――リメイクブームの終焉で服づくりの方向性を変えなければと思った時期があったと、あるインタビューで語っていました。

エディ・スリマンのディオール オムが爆発的に売れて、メンズテーラードブームみたいなものが起きていましたし、時代が切り替わったことを自分の肌で感じました。それで、真剣にものづくりをしようと。ようやく自分と向き合い、ブランド名を変えたんです。

――キディルというブランド名にした理由は?

KIDILL(キディル)はkidとillからなる造語です。限りなく純粋で愚かな少年の狂気みたいな、ピュアな感情を忘れないで服づくりをしようと思ってつけました。

――2014年の立ち上げで、2014~2015年秋冬シーズンの発表で早くも東京コレクションに参加(2014年3月にランウェイショー)しました。

ヒロはユニセックスでしたが、キディルはメンズとしてやってみようと。ヒロの後期から織物工場や縫製工場など生産の現場を回って勉強もしていたので、パンクは封印しテーラード路線で勝負しました。ところが、それで大失敗して…。

――デビューコレクションは今のキディルと違って、冒頭にはオールブラックのルックが登場し、シンプルなデザインが多かったですよね。

ノームコア全盛期でした。Tシャツは無地でいいし、ジーンズも加工なしでいいわけですよ。僕からしたら「何それ?」。ノームコアを賞賛する雑誌を全部燃やしたかったですね(笑)。資金繰りも苦しくなってきて、消費者金融のお世話にもなりましたよ(笑)。ノームコアに精神から資金から、何から何まで削られていくんですよね。

デニス・モリスに会って
起死回生のコレクションを発表

――そこからパリコレまでどうやって復活?

今では笑い話にできるんですが(笑)、そんな中でも2016年3月に神宮前(渋谷寄り)にキディルルームという旗艦店をオープンしまして、ありがたいことにヒロの時代からのファンの方がキディルの服も買ってくれました。お店の大切さを感じましたね。


――お店はやはり力になると、皆さん、おっしゃいます。

営業的にはギリギリで続けていく中、2017年にデニス・モリスに出会うんです。

――セックス・ピストルズなどの写真で有名なフォトグラファー!

そこから復活劇がはじまりました。彼が東京コレクションを見にきてくれたんですよ。彼もパンク好きなので、その後にピストルズかPIL(パブリック・イメージ・リミテッド/ジョン・ライドンのバンド)でいっしょに何かやりたいと話したら、「いいよ」ということになって。

――原点回帰するわけですね?

はい。もう一回自分の好きなことをやろうと決めて、2018年春夏に自分が大好きなジョニー・ロットン(ピストルズ時代の名前。PILからはジョン・ライドンを名乗る)でコレクションを構成したら、今まで取引がまったくなかったお店からもオーダーが入ったんです。ようやく「売れた!」(笑)。

――デニス・モリスの写真がパンクシーンではいちばんカッコいいですからね!

一発ガツンと殴られて気づいた、みたいな感じです。そのときのコレクションが「TOKYO新人デザイナーファッション大賞」でグランプリを取って、パリ出展のサポートを受けたんですね。そこから完全に考え方を切り替えて「やっぱり自分が好きな、ユースカルチャーとリンクさせて服をつくろう!」と決意し、今のキディルの世界をつくりはじめました。

――2019年6月には、パリコレクションでオフスケジュールのランウェイショー(2020年春夏)も経験しています。

パリコレの公式日程に入れてもらうためには、いろいろなハードルがあるんですよ。最初からランウェイはできないので、まずはプレゼンテーション形式で発表して、それをクリアしてからランウェイのスケジュールに入れてもらえるようになるんです。

アウトサイダー・アートの
第1人者と夢のコラボが実現

――その後はコロナで、パリでのフィジカルでのショーを断念することが続いています。オンラインでパリに参加するようになってからは、世界観づくりにも磨きがかかっていますね。今シーズン(2022年秋冬)の鳩山会館でのショーはバックステージも見せていただきましたが、洋服と空間のマッチングが見事でした。

今回は以前から好きだったアウトサイダー・アート(正規の美術教育を受けていない作家の作品)の芸術家、ヘンリー・ダーガーの作品とコラボレーションをして、「THE OUTSIDER」というテーマでコレクションを構成しました。原美術館で2007年に展覧会があったときに見て、画集を買ったりドキュメンタリーを見たりして知識を深め、その後もラフォーレミュージアム原宿(2011年開催)の展覧会に行き…。MOMAクラスの画家なのでコラボの前例もなく、難しいだろうとダメもとで連絡したんですよ。

――そんなアーティストとなぜコラボできたんですか?

ダーガーは精神的に病んでいたようで、生前には作品を公に発表したことがなかったんです。亡くなった後に、住んでいたアパートの大家さんが作品を発見して、世に知られる存在となりました。その大家さんの奥さんがキヨコ・ラーナーさんという日本人だったという経緯もあるんですが…。


――ほかにも要因が?

僕は何かやりたいことがあるときは、ものすごい熱量で手紙やメールを書くんです。どうしてやりたいのか? なぜヘンリー・ダーガーが好きなのかということを、熱烈に書いて手紙を送りました (笑)。僕自身、ダーガーと同じように「自分は何者なのか?」というところで葛藤しているし、岡本太郎の本に出会ってからは「生きるとはいったいどういうことなんだ?」ということを探して服をつくっているので、そういう赤裸々な気持ちを記しました。

――確かパリコレの審査のときにも面接がダメだと思ったから、熱いメールを書いたんですよね。

はい(笑)。ダーガーを所蔵しているニューヨークの美術館に送ったその手紙を、著作権を持っているキヨコさんが読んでくれて「じゃあ、やりましょう」と快諾してくれた。ショーにはキヨコさんも来場してくれて、心から喜んでくださいました。

――素敵なエピソードですね。コレクションはガーリーで、パンキッシュで、幻想的で。過剰なまでの装飾や過密なプリント、色使いが印象的でした。同時にパンクの定番でもあるチェック柄も多様に使われていて、見ごたえがありました。

今回はダーガーの絵をジャカードや刺しゅう、プリント、いろんな技法で表現しました。ニットは以前からごいっしょしている東佳苗さんのルルムウ(rurumu:)との協業です。色も淡いパープルやイエローなど、彼が好んだカラーパレットからピックアップしました。

――つくるのに苦労したアイテムなどはありますか?

人形のようなオールインワンは、洋服というよりも着ぐるみのような作品ですが、服として工場でつくるのが難しかったですね。これはダーガーの書いた長編小説「非現実の王国で(In The Realms of the Unreal)」に登場する男性器を持つ少女、世界と戦う“ヴィヴィアン・ガールズ”を僕なりに解釈して表現しました。

――このシーズンはTOKYO FASHION AWARD 2022の受賞者として東京コレクションにも参加しましたが、そちらは友人のバンド「PSYSALIA人(サイサリア ヒト)」のライブという形での発表でした。

一度、鳩山会館でランウェイショーや動画をすでに発表していたので、東京コレクションでは自分の精神性や嗜好を重視してライブ形式にしました。


バックグラウンドのある
服は魅力的に見える

――末安さんはブランドを続けるためには「柱」が必要だと、いくつかインタビューなどでおっしゃっています。その末安さんの「柱」が「パンク」なんですよね?

「柱」というのは自分の強みのことです。自分がほかのデザイナーに負けない部分って何だろ? と考えたときに、イギリスのユースカルチャーやハードコアパンク、このあたりは今でもずっと好きだし、そういった自然に湧き上がる「好き」という気持ちを追求したら、自分だけにしかつくれない服づくりができると思いました。

2003年に発行された日本のハードコアシーンをとらえた写真集「INFERNO PUNX」。ほかにも末安さんの自宅には貴重な資料がストックされている!

――「柱」がないと、世界で戦うのは難しい?

難しいと思います。一本筋が通っているデザイナーの服はやっぱり魅力的に見えるし、説得力が出ます。どんなにいい素材を使ってすごい縫製でも、バックグラウンドがないと「ただの服」なんですよね。もちろん日本ではそれでもやっていけると思いますが、パリではその戦い方だと負けると思います。

――最近は、パリコレクションを目指さないデザイナーも増えました。

どのステージで戦うかにももちろん、よります。

――パンクといえば先輩にはアンダーカバーの高橋盾さん、広義的にはコム デ ギャルソンの川久保玲さんがいらっしゃいます。

僕がはじめる前からパリで戦っている大先輩方です。この6月にパリでコム デ ギャルソン オム プリュスのショーを拝見させていただきました。

――2023年春夏のキディルのコレクションを、パリでプレゼンテーション形式で発表したときですね?

2023年春夏は、好きなホラームービーを題材に。

はい。パンクって様式美のようにとらえられがちですが、僕は精神性のほうが大切だと思っています。要は「反骨精神」というモチベーションをいかにキープできるか? 自分に対して、世間に対して、その怒りや想いをクリエーションに置き換えて、コレクションを継続すること。川久保さんは1981年にパリコレに参戦したときから、40年以上、79歳になった今も「反骨精神」で戦っている。そんなデザイナーは、世界を見渡してもいません。


――コロナ禍で、東京でショーを開催したときに、インタビューでも「反骨精神」が信念だと語っていました。

パリコレのトップを走る人が日本人というスゴさ。心強いですよね。継続していくことの大変さは少なからず、僕も経験しているので、これからもパリでショーを続けられるように、パリで上り詰めれるように、自分と向き合います。

KIDILL2022~2023年秋冬コレクション
@鳩山会館
ショー前後のデザイナー、末安さんに密着。

文京区にある鳩山会館にて1月15日に開催。

ヘアメイクは同時代にロンドンにいたメンバーも多い、モッズヘアのチーム。

ヘアメイク中に海外メディアなどのインタビューを受ける末安さん。

スタイリスト島田辰哉さんとヘアメイクの進行を確認。

着替えがはじまる前のフィッティングルーム。

フィッティング開始。末安さん自ら着せ付けるルックも。

後ろ姿などをスタイリスト島田さんとチェック。

ヘアのバランスなども服を着せてから確認。

メイクの修正。チームでスピーディに対応する。

ショーの会場となる鳩山会館の庭。

リハーサルがスタートする直前、庭へ続く1階の部屋で説明を聞くモデルたち。

モデルのウォーキングを立って見守る末安さん。

BGMにヴァイオリンの生演奏が華を添える。

手もとにはコーディネート一覧表。

客席に座って洋服の見え方を確認する。

リハーサルと本番の間にもインタビューを受ける。多忙だ。

ステンドグラスが美しい階段を何度も、行ったりきたり。

ショー本番直前。シューレースを締め直す。

ショースタート直前、踊り場でスタートの合図を待つ。

ショー開始後は階段の踊り場でスタイリングの最終チェック。

気になるところがあればすぐに駆け寄って修正。

ひたすら着こなしの補正。

踊り場を行ったりきたり。ひたすら補正。

着ぐるみ式のオールインワン。ハトメ穴から外が見える。

フィナーレをフィッティングルームの窓から見守る。

ショーの成功を拍手でねぎらう。

フィッティングルームで感謝の挨拶。

BRAND PROFILE

KIDILL(キディル) 2014年秋冬から始動して8年目。ヘンリー・ダーガーとコラボした秋冬コレクションが8月から店頭に登場。明治通り沿いの旗艦店「キディルルーム」、全国の取扱いセレクトショップのほか、ドーバーストリートマーケット ニューヨークなど海外でも展開される。

HP / インスタグラム

Photos:Kenta Watanabe(portrait&report/show backstage) Composition & Text:Hisami Kotakemori


小竹森久美

小竹森久美

エディター

「僕らの永久定番ファイル」や「コレクション速報」などファッションテーマを幅広く執筆。

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